2003年8月の日誌
>> 1(Fri)
祭りに光を
>> 7(Thu)
間一髪
>>10(Sun)
練習の風景
>>14(Thu)
前夜祭
>>14(Thu)
最後の関門
>>15(Fri)
楽しかった一日
>>15(Fri)
柱松を立てるということ
>>15(Fri)
それぞれの火祭り
>>24(Sun)
おじさんは川に洗濯に
>>25(Mon)
海の博物館へ
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最新の日誌【3件】
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 夕方6時半から、それぞれ決められた服装を身につけ観音堂に集まり本番に入りました。
祭りの詳しい様子は……正直言って面白いレポートは書けそうにありません(^^; ボクは頭役だったので本番では基本的に輪の外に突っ立って見ているだけ。 何か問題が起こればそれなりに動く予定でしたが、今年の若衆達は雨にも負けず何もかも段取り通りにきちんとやってくれたのでボクらの出る幕は全然ありませんでした。 祭りの主役である若衆達の活躍も観客のひとりとして遠くから見ることしかできなかったんです。
楽しんだ若衆、つまらないと思った若衆、辛かった若衆、もっとやりたかった若衆、早く終わりたいと思った若衆、きっと色々居たでしょうが誰がどう感じていたか、各々の間でどんなドラマがあったかは残念ながら分かりません。
 こちら(ホームページ)をご覧の方は写真館の彼らの動き表情などからいろいろに想像してみてくださいませ。観察力、筆力がなくてすみませんm(_ _)m
でも自分のことなら書けます(笑) 0時前に大念仏が無事終わり、程なく火祭りに移ったのですが、若衆が投げるタイ(火付けの為の松明)がツボキに入っても柱松はなかなか燃え出しませんでした。
 ボクは(上の組織に当たる)組合のテントに呼ばれ、 「今年は火は着かんだろうから、頃合いを見て下から(長い竹に付けた松明で)あぶって燃やせ」 と、指示を受けました。 うちの祭りの組織は完全な縦社会ですから、上の方の言葉は絶対です。 頭=祭りの責任者と言っても、実は中間管理職でしかなかったりします(^^; 「分かりました」 と、頭を下げてその場を去りましたが、心の中では、 『何言ってやがる!昼間あんなに苦心して作った柱松じゃないか!絶対に火は着く!若衆!テントからごうを煮やして(もう一度)声が掛かる前に絶対に火を着けろよ、コラ〜ッ!』 と、悪態を付いていました。 と、言うか、現場の若衆達にそのまま言いました(笑)
しかし、ホントなかなか燃え出さずにムチャクチャやきもきさせられましたが、一度炎が上がり始めると気持ちよく燃え出しました。
 
今年は旗竿も3本とも倒れ、柱松を倒す方向も完璧で上手く祭りを締めくくることができました。 ボクら頭衆は肩を叩きあって喜び、悔いもなく最高の気持ちで穏殿岡を後にできたのですが、みんなも同じような気持ちでいてくれたのでしょうかねぇ??
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No.19 |
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祭りで使っている楽(太鼓)はなかなか高価な代物です。 それもおととしに新調したばかりで、まだ延べ日数で30日も使っていません。 そ、それが……今や、何とも変わり果てた姿に!!( ̄□ ̄;)
祭りを終えて16日に楽や他の用具を片づけて以来、今日の朝、倉庫をおそるおそる開けて見ると、そこには……「風の谷のナウシカ」(宮崎駿監督作品)の腐界にも似たカビと悪臭の異様な世界が広がっていました。
今年の祭りは雨続きで用具もビショビショに濡らしてしまった為に、今日は鉦役衆が集まって用具の天日干しなどのメンテナンス、雨できっちりできなかった穏殿岡の掃除をしました。 (16日、川が増水していたためにできなかった柱松の川底への固定も中老頭さんのご協力により実施しました)
しかし、予想通りというか予想以上というか、楽を始めとする用具の状態は酷いものでした。 皮の部分はカビだらけで汚くまだら模様にはなり、一部はモコモコと綿のようなカビが盛り上がっていました。下部は地面との摩擦で刷り傷だらけ、胴も傷つき泥に汚れて真っ黒でした。 柱松を支えていた太綱3本もこの世の物とは思えない不思議な悪臭を放ち、紋付きの役付きの者達が手にしていた提灯の多くは雨で破れて修復不能になってしまっていました。 祭りのあと……と、よく言いますが、意地と根性で強行した雨の祭りでしたが夢から覚め、今、現実(ツケ)を厳しく見せつけられた感じです(;>_<;)
でも、ま、落ち込んでも仕方がないので、太鼓や太縄は掃除してお日様の下に干しました。 提灯も上の頭Sさんの素早い手配でさっそく作り直しを注文したそうです。 テントやシートも濡れて汚れたまま倉庫に押し込んであったので洗いました。
ボクらの小さい頃には自分の母親や近所のおばさん達は普通に川で洗濯していたのですが、ホントに久しぶりに川に入ってシートとテントを洗いました。 浅瀬のせせらぎに青や白のシートを広げるとゆっくりと流されていきます。 そうするだけで大抵のゴミや泥汚れは綺麗に落ちてしまいました。 今日も町中は酷暑と言いたい程の暑さでしたが、雑木林の木陰になっている川は水も冷たくて天国のような場所でした。 『こんないい場所をどうして忘れていたんだろうか』 と、不思議になりました。
お墓の方の班は竹や麦ワラの残りを掃除し焼却するという、ボクらとは正反対の厳しい作業、随分不公平になってしまって申し訳なかったです(^^ゞ
作業はお昼前に終わりました。 とは言っても最低限のメンテだったし、来年の楽直しは大変だろうなぁ。。。
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No.20 |
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ボクは実は祭りの起源や歴史については詳しくありません。 ホームページを製作する上でも資料の少なさに困っていたし、九鬼嘉隆を中心に戦国時代について調べていると楽しくなって歴史への興味も沸いていたので一度ちゃんと調べてみたいとは思ってきました。
でっ、まずは楽なように詳しい人にお話を伺おうと(^^ゞ…2年前の頭・奥村氏に紹介いただいて、地元鳥羽にある「海の博物館」館長・石原氏にご相談することにしました。 今日電話すると快く会ってくださるということでさっそく行ってきました。
とは言え……氏の文章は読んでいても実際の人物はどんな方だか知らないし、こちらは歴史や民族学なんてからっきしのアンポンチンなんで話がかみ合うか正直不安だったのですが、お目に掛かった館長さんはとても気さくな方で、うちの「火祭り」の話題を中心に長いこと話に付き合ってくださいました。 学者肌の方と話すなんて初めてでしたが、どうにか変な沈黙もなく終わってホントとっても楽しかった〜ヾ(@^▽^@)ノ
館長さんは海の生活の歴史と文化的なことを専門に研究されている方ですが、火祭り=柱松についてもかなり詳しく日本中にその習わしはあるのだと教えてくださいました。 例えば、山口県光市(周防)、長野県の戸隠、和歌山県太地町、福井大飯町などに火祭り(柱松)の風習が残っているそうです。 ディティールはそれぞれの土地で変わっているそうですが、その違いを見せ合うのも面白いし、一度連絡を取り合って合同で火祭りをやったらどうかなんていう楽しいアイデアも出して頂きました。 「そりゃ、いいですね。鳥羽市が中心になりイベントとしてやれば……夢物語でもありませんね!」 なんて言って盛り上がってきました。
それから火祭りは先祖を弔う行事として民衆の生活に根付いたという側面と一方、修験道の修行や「験くらべ」と呼ばれる技くらべとしても発展してきたんだそうです。 具体的にどんな風にうちの村に伝わってきて始まったのかまでは、 「まったく分からんなぁ(笑)」 と、館長さんは笑っていましたが、その真っ正直なお人柄が大変気に入ってしまいました(若造が失礼ですが(^^;) 帰りに館内を歩きながら、 「実は今日は(祭りの)ポスターを持参するのを忘れました(^^ゞ」 「それはイカンなぁ、肝心なことを忘れちゃ。またいつでも遊びに来なさい。持ってきたら貼ってあげるよ」 と、おっしゃって頂き、その後、別の面会の用ができたということで「申し訳ないが……」と、館長さんは去っていかれました。
ボクの方は……すでに何度も訪れている博物館でしたが、巨大な木造の展示室など施設自体のたたずまいや雰囲気が好きだったこともあり、チケットを購入して見学して歩きました。 「櫨こぎ船体験」の立て札に誘われて浜に下りると、先日完成したという和船が海に浮かんでいました。 面白かったのは、浜への道はそのまま浜辺の町につながっていて柵もゲートもないその道からはいくらでも博物館に出入りができるということ。 何というおおらかさ!(笑) 館長さんのお人柄そのままののんびり経営なんだろうなと、また楽しくなりました。
【海の博物館】
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No.22 |
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