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盆祭の印象

平成13年8月15日、私は、午後3時ころ隠殿岡へ上がり「柱松」が立ち上がったところを見、それ以降の「盆祭」の進行をほぼ見続けることができた。それは、これまで見た中で、最高の「先祖送り」 の盆行事であった。

なんといっても、午後6時過ぎから深夜の午前1時過ぎまでつづく行事を河内の全家が見守り続けている。特に、深夜になるにしたがって、人々がどんどん墓地に集まり増え、各家の墓前で火祭りに移る直前、盆帰りした姿なきご先祖様と飲食を共にする光景は、心を持つ人間のやさしさの本質を見る思いがした。私たちが忘れかかっているもの……。「楽打ち」を芯とした盆祭の演技は、夕刻から若衆たちによって、延々と続けられる。最初の少し間延びした楽の囃子と鉦の音は次第に高まり、活気を増して行く。最後にクライマックスが来る。そこには経験からくる巧まぬ演出が隠されている。午前0時近く、「ネラセ」から「楽」は「柱松」へ移動しようとして、激しく「鉦」と揉み合う。若衆たちの声、楽の音、鉦の音が高まる。火祭りは、一瞬の内にクライマックスを迎えて終わる。火付け木のタイを激しく奪い合う若衆と、奪われまいと青竹を真剣に打ち振るう若衆頭たち。タイが次々とツボキへ投げ込まれ、ツボキに火がつく。爆竹が破裂し花火が飛ぶ。ツボキが燃え上がる。黒天に紅蓮の炎。縄が切られ「柱松」が西に倒れる。

この報告は、平成13年の若衆頭・奥村晃氏からの聞き取りによっているが、その中で『日あがり』、『晴れの頭領楽』、『岡の儀は持ち越さぬ』という3つの言葉が印象に残っている。すでに書いたように、河内盆祭の執行は厳密な年齢序列制で続けられてきた。この制度は現代において様々な困難に直面している。しかし、それを承知の上で持続しているこの制度が、「盆祭」そのものを伝統的に継承している源であり、その「凄み」を秘めているのである。外野者が余分なことをとお叱りをうけるだろうが、可能な限りこの『日あがり』制度が継続されることを期待したい。晴れの頭領楽』は祭り行事の統率の必要性と花形役者の存在をいう。頭領楽は「勢揃い」で「頭領次第でよろしく」と挨拶し、「楽」の進行を取り仕切る宣言をした。その頭領楽は自ずと祭りの花形でもある。河内の若者にとって頭領楽こそ一生に一度は演じてみたい役柄に相違ない。そして『日あがり』制度ゆえに必ず一度は巡ってくる役割なのである。岡の儀は持ち越さぬ』、この不文律は若者たちの発散をゆるす。相当に厳しい序列と規律のもとにあるこの盆行事のなかで、クライマックスに近いネラセやタイの奪い合いでの肉体的な「発散」こそ、少々の無軌道を許すことによって若者たちの明日のエネルギーを呼ぶことを先輩たちは知っている。その代わり発散は、岡すなわち隠殿岡におけるこの日1日の行為にのみ許される。そして岡での行為は絶対に、「明日に持ち越さぬ」ことが約束されている。

昭和62年、この行事は「志摩加茂五郷の盆祭行事」として国により重要無形文化財に指定された。古くは、松尾、船津、河内、岩倉、白木の旧加茂村の五郷共同で施行され、のち分散した行事も、現在では発祥地・隠殿岡で、河内若衆がその伝統を守り続けている。 このような柱松行事は、現在私の知るところでは、山口県光市と和歌山県太地町で盆行事として盛大に行われている。また、和歌山県新宮市佐野でも近年復活したと聞く。この行事は、修験道において山伏が行う「験くらべ」といわれる術くらべの一つだという。「河内の盆祭」には、ほかに修験道あるいは山伏に関係する内容が見え隠れしており、今後、より進んだ研究が期待される。

海の博物館館長 石原義剛


2005-09-06更新 鳥羽・河内火祭り